虚ろなる神の娘の戯れ

 雪化粧を施した幻想郷は、春が近づくにつれ徐々にお色直しを続けている。銀世界は空気の変化と共に景色を変え、山のキャンパスは天然の色によって塗装されて自然を取り戻していく。入れ替えるように再び色を染めていくのは、春色の桜である。
 桜の花は雪解けを迎えた世界を白く染め、季節は春へと移り変わっていく。こうして天然の画家は虚空のキャンパスに色を与えて幻想郷を彩っていく。何億年もの間、愚直なまでに塗装を繰り返す世界はからくり仕掛けの神の歯車と言い換えてもいいだろう。けれど、ただの歯車と違い毎日に変化を与えるのは神の名がつく所存か。
 同じようで同じでない世界。毎日が少しずつ変化していく人生の中、僕はヒトの小さな変化を目の当たりにする契機に恵まれた。
 雨が静かに、小止みなく降っていたある日のこと。
 香霖堂店内は薄暗い明かりに覆われ、椅子に座った僕が本をめくる音や、お勝手の傍で霊夢が静かにお茶を飲む心地よい沈黙に包まれている。
 壊すなどとんでもない静謐の空間。朝も夜の区別がない境界のなさも好きだが、このような静寂の空気も悪くない。
 その空気に無粋な言葉を投げたのは、雨が降って神社に帰れなくなった霊夢の一言だった。
「ねえ霖之助さん、キスしてもいい?」
「……妖怪変化、物の怪の類に化かされたかな。もう一度言ってもらっていいかい?」

 吐いた言葉もさることながら、言った人物が人物なので僕は頭でわかっていてももう一度尋ねざるを得なかった。

「口付けしてもいい、って聞いたのよ」
「雨に打たれて頭がおかしくなったのか? だったらお風呂を用意するから、すぐ入るといい」
「失礼ね。私は十分正常よ」
「よりにもよって、だったからね。そういったのが君の口から出るなんて流石の僕も連想できない」
「そんなにおかしいことかしら?」
「ああ。おかしい」

 小首を傾げる霊夢。
 幼少の頃から知る、疑問の仕草。自分の言った言葉がどうして疑問なのか、訝しげに思っているのだろう。
 考えても見て欲しい。
 あの霊夢だ。
 何事にも捕らわれぬ、縛られぬ楽園の巫女。
 人間にも妖怪にも興味を持たず、誰に対しても仲間として見ない彼女が。
 人妖問わずヒトを惹きつけるも、それが自然であるために特別視することはなく常に自分一人であることを是とした、あの霊夢が。
 よりにもよって、と言う他ない。
 僕は驚愕を表情に出さず、思ったままの疑問をぶつけた。

「そういった男女の機微に最も興味なさそうな君から出た台詞だったからね。いきなりどうしたんだい?」
「雨に降られる前は、人里に買出しに行ったのよ。そこで、私より少し年上くらいかな。ともかく、人間の男女が道の隅でいちゃついててね。なんとなくそれを見てたんだけど、そこで二人がキスしてたのよ。そしたらなんか、お互い幸せ一杯って顔してて。前々から思ってたけど、それがすごく疑問なの。単に唇を合わせるだけでしょ? お茶を飲んだほうがよっぽど幸せになれるわ」

 そういった覗きに該当する行為を、何の躊躇いもなく言えるのも彼女の特性なのか。僕はなんとも言えず眼を細め、適当に言葉を選んだ。

「霊夢。人それぞれって言葉があるだろう? 君にとっての娯楽と、恋人同士の逢瀬を同一にするのはよくないよ」
「そうかなぁ。夫婦の人たちが口付けしてたのも見たけど、やっぱり幸せそうだったわ。どうしてかわかんないから、私もしてみればわかるかなって思ったの」

 なるほど。あの言葉に至る経緯は理解した。
 しかし、それを実践して成果が得られるというのはまた別だ。

「あれは互いに好いた同士だからこそ得られる快感、興奮だよ。興味本位で得られるようなものじゃない」

 人間の三大欲である、食欲・性欲・睡眠欲。恋愛感情はこの中でも性欲に該当する。
 性欲は三大欲の中でも、最も感情を激化させる危険な生態だ。
 こと男女の関係となれば、その苛烈さは人はおろか妖怪を越え神にすら影響を及ぼす。
 人の歴史を紐解けば、性欲によって最も大きな災厄を起こしたのは、古来中国で殷(いん)の紂王(ちゅうおう)と呼ばれた、殷王朝最後の王が上げられる。
 彼は妲己(だっき)と呼ばれる美女を寵愛し、彼女を悦ばせるために行った酒池肉林に溺れ虐政を行った暴君の代表と言える。
 元々賢帝として名を馳せた彼にとって、それに振り回されたのは悲劇と言うしかない。
 また、性行為による快楽はそもそも出産における不安を和らがせるためであろうに、今では肉体を求め合う捩れた恋愛、或いは遊女の存在を低迷させ果ては快感を求めた強姦へと成り下がった醜い行為へと変わった。
 それほど、欲というのは人間を変える。
 或いは、霊夢がこんなことを言い出したのも、成長期による本能の刺激ゆえかもしれない。……女とはわからないものだ。

「って、霊夢。何してるんだ」
「何って、さっき言ったじゃない」

 いつの間にか霊夢は僕の膝の上に座っていた。そのまま伸ばしてくる手をなんとかあしらい、反転させて人間椅子の体勢を作る。手は何かされないよう、重ねておく。

「毎度の話だが、君は人の話を聞かないな」
「そっちもね。っていうか霖之助さん、私はまだ答えもらってないわよ?」
「言わなくても態度でわかるだろう」
「言葉で伝えなきゃわからないこともあるわ」
「君がそれを言うか」

 困ったものだ。このままでは流されて本当にしてしまいそうだ。
 かといって霊夢は止まりそうにない。最も、僕が彼女の行動を止めるというのは奇跡のような確率だ。どうしたものか。

「君は他人に縛られない気質だろう。評価なんてどうでもいい、って思っていたんじゃなかったか?」
「そうよ。別に人から何を言われようと思われようと、自分が認識しなきゃ変わるわけじゃない」

 言葉は古くから呪法の最も重要な部分を司るまじないとしての一面も持つ。言葉による影響とは果てしないのだが、霊夢にとっては馬の耳に念仏と同じなのだろう。ある意味、羨ましいものだ。
 霊夢の浮遊感、というより束縛されない特性は誰にも真似できない。それゆえ、心底そう思っているであろう霊夢の台詞。
 他人の気持ちを理解できない、理解しないというより自分を偽らないその性格は、周囲にとって異質、或いはまぶしいものに感じるのだろう。だからこそ、霊夢の周りには人が集まるのかもしれない。

「けど、自分で思ったことは別よ。私がこうしたい、って思って行動するからそれは正しい変化だわ」
「かといってなぁ…………」

 先延ばしもそろそろ限界だ。
 このままでは強引に口を奪われかねない。
 僕としては、霊夢が心底そうしたいと願う相手として欲しいと思うのだが、先ほど言った通り霊夢は自分が納得しない限り止まることはないだろう。全く、なんで僕がこんなことで悩まなきゃいけないんだか。
 とは言ったものの、こうしていてもらちが明かないことは確か。僕は適当に言葉を発しながら打開策を練る。

「ようは、君は恋愛感情に興味を持ったということだろう? なら、段階を踏んで試してみればいい」
「段階?」
「恋人の逢瀬は古くから幾つもの種類がある。いや、それ以前に知り合いから親交を結び、そこから愛情に発展させる流れが必須だ。お見合いなんてのもあるけど、ここは除外しておくよ」
「回りくどいわね。何が言いたいの?」
「まずは異性として好く人物を探せってことだ」
「いないから霖之助さんに頼んでるんじゃない。全く、話を聞かないわね」

 霊夢にだけは言われたくない。この巫女にまともな常識を期待するほうが無理な話だったか。

「嫌なの?」
「嫌だ」
「どうして?」
「する理由がない」
「男はそういうの気にしないって聞いたけど? むしろ女を囲った数がステータスだって」

 誰だ、そんなこと教えたのは。

「生憎、僕にそんな甲斐性を求めるのが間違いだ」
「うーん、仕方ないわね」

 霊夢は僕の手を外して膝の上から降りる。ようやく諦めてくれたか。

「じゃあ、気分だけでもいい?」






「日を改めるって考えはなかったのか?」
「思い立ったが吉日、悩んでいたら興味も薄れちゃうわ」

 ぜひ薄れて欲しい。
 あれ以上の議論は無意味。適当に逢引らしいことをしてやれば気が済むだろうと思い、僕は彼女と共に外を歩いていた。
 最早霊夢は止められない。こうなれば、僕が教えてやるしかないだろう。
 しかし、霊夢との逢引なんて考えたこともなかった。
 人里の買出しに赴くのとわけが違う。知り合い同士と恋人同士のそれでは、込められる比重が全く違うからだ。
 霊夢に恋人気分を味わわせるのは、面倒だが構わない。
 だが、浮世離れした彼女に満足感を与えるのは果てしなく困難な道に思えた。
 恋愛とは感情の共有を強めた一種だ。
 喜怒哀楽における理性で互いを分かち合い、男と女における生態で互いを分かり合い、子孫を残すといった人間の本能に結びつく。
 妖怪となればまた話は別だが、少なくとも人の恋愛の定義はこういったものだろう。
 霊夢だって、時間の経過と共に自分が女性であることを強く意識せざるを得ない周期がある。だが今の彼女が求めているのは、恋愛感情が起こりえる事象の答えだ。
 まずは霊夢が喜びそうなものを選ばなければならない。
 どうするかと考える僕の傘に、霊夢の傘がぶつかってしまい思考を止められる。むぅ、と頬を膨らませる彼女に詫びながら、僕は少し距離を取った。

「ねえ霖之助さん。恋人同士って、相合傘をするものじゃないの?」
「何を言ってるんだ。本当に相手のことを考えるなら、傘は別々にするべきだ。一本の傘を二人で共有したら、それだけ雨を防ぐ傘の面積を越えてお互いに濡れてしまうだろう?」
「ならどうして相合傘なんて好むのかしら?」
「仲の良さを示すからじゃないかな。一本の傘を共有することで、互いに寄り添い合い強く相手を認識する。体が触れ合う距離と言うのは、否応なしに男女を意識させるからね」
「なら、やっぱりそうするべきじゃないの?」
「僕はべったり引っ付かれるのは苦手だからね」

 魔理沙も強引に僕と腕を組む時があるから困る。自分のペースを崩されるのは嫌なのだが、魔理沙も霊夢同様に人の話などお構いないから、言っても無駄なのだ。
 雨は気落ちした気分を示すもの、と聞いたことがある。
 確かに雨が降れば歩きにくく、通行の妨げにもなるし傘を持っていなければ身体に浴びた雨が不快感を与えるのだろう。
 だが、そんなのは一面でしかない。少なくとも僕にとって雨とはそこまで拒絶するものではない。
 魔理沙なんかは、台風の日はむしろ外へ出てはしゃいだりしていた。それに雨の音だけが世界を支配する、あの静寂の時間を堪能するのも良い気晴らしになる。
 調子が良い日も基本的に雨だ。陽の射さない森に住み、黒い服を好む魔理沙や霖(ながめ)の字を持つ僕の気質は水を示しているので、雨を嫌いにならないのはそのせいもある。見るからに春であり、東方に住む霊夢の気質は木。水は木を育てる要素なので霊夢も雨は嫌いではないはずだ。
 最も、台風や雷雨といった度がすぎた雨は願い下げだが。花に水を与えすぎて枯らすように、何事も程ほどに、である。
 そんな風に僕らは、適当に歩いて適当に話していた。

「うーん、外に出たのはいいけど結局霖之助さんの話を聞いてるだけね。違うのは、座って聞くか歩いて聞くかの違いだわ」
「僕としては歩いて疲れるって部分を追加して欲しいね」
「軟弱ねぇ」
「鍛えてないから」
「それでいいの?」
「いいんだよ」

 争いごとが出来ないのだから、無理に鍛える必要はないのだ。

「ねえ、霖之助さん」
「何だ――」

 突然に手を掴まれ、僕は傘を取り落として引き寄せられる。
 霊夢は背伸びしていた。右手は傘を、左手を僕の手に重ねられ。
 そして唇は、僕の唇と触れ合っていた。

「――――――――――――――――」

 眼を見開く。
 鼻息が顔にかかったせいか、霊夢は少ししかめっ面だ。そうする理由もないのに、僕は慌てて息を潜めてしまった。

「…………………………………………」

 僕も、霊夢も、その場から動かない。
 まるで一種の絵画のように、僕達はその場に縫い付けられていた。
 何事にも縛られぬ巫女を縛り付けた糸は、徐々に拘束を強めていく――つまり、霊夢はさらに行動を起こした。
 唇が動き、僕の上唇を挟み込む。
 霊夢は加減を知らないのか、少し強めに挟んでいたが僕がリードして甘噛みするような力加減を教え込む。やがてパンに具を挟むような柔らかさへと変わっていくが、結局動きに飽きたのか重ねた最初の状態へと戻った。
 体感時間を把握できず、聴覚が捉える雨音やじっとりと服に染み込んでいく雨の水滴だけが時間の経過を知らせる。
 この時間を終わらせるのは簡単だ。僕が唇を離せばいい。
 けれど、出来なかった。
 久しく経験していなかった女性の感触を楽しむため、浅ましい男としての本能がそうさせないのか。
 それとも、霊夢の言葉をどうにか叶えようとしている僕がいるせいか。
 わからないままに、ただ時間だけが流れていった。
 僕に出来たのは、霊夢が疲れないよう傘を持つ彼女の手に自分の手を重ね、代わりに持ってやることだけだった。


 やがて、霊夢のほうから口を離した。
 見詰め合う視線の中に会話はない。霊夢は唇に手を引き、ぽつりと漏らす。

「やっぱり、口を重ねただけじゃわかんないわね」
「…………そうだね。そう簡単に行かないだろう」


 雨はまだ止む気配はない。春雨の名に相応しく、細かい雨が静かに降り注いでいる。
 やはり霊夢は帰るのが面倒ということもあり、香霖堂に一泊することになった。




 今日はおつまみと酒だけの予定だったので食事は質素なものだったが、特に不満もなく夕食を終える。
 霊夢を風呂に入れている間、僕は今日のことを振り返っていた。
 唐突な霊夢の提案。それは何事にも捕らわれぬ巫女が、決して捕らわれてはならぬ恋愛に興味を持った事実。
 彼女らしからぬ考えとは思ったが、終わってみれば何も変わらない。単なる戯れの時間でしかなかった。
 全てを受け入れる幻想郷の理念を体現し、人と妖どちらにも等しく接する中立の立場を貫く博麗の巫女。
 神霊は気楽に幻想郷を楽しんでいるだけの妖怪の一つ。真なる神である創造神たる龍神とはまた違う。
 博麗の巫女とは、幻想郷という名の神の娘だ。
 神霊は全ての物の元。神霊の性格は物の性格。神霊の感情と力はそのまま物質――霊夢に現れる。
 霊夢がしているのは全てを受け入れ、肯定することだ。
 精神で自己を確立する妖怪にとって、他者の肯定は自己の肯定に他ならない。博麗の巫女が自分を認識する限り、自分は自分でいられるのだ。
 だが、幻想郷は美しくも残酷な世界である。
 霊夢がするのは肯定だけであり、そこに共有はない。
 現に彼女は妖怪を見かけたら即効で倒すというポリシーを持っているように、存在を認め・受け入れはしても決して馴れ合わない。
 自己を認め、受け入れたものからの拒絶。
 それはそれは、残酷なことだろう。
 ひょっとすれば、自殺まがいのことさえしてしまうかもしれない。
 だが、そんな軟弱な精神を持った妖怪は霊夢の代から余り見かけない。
 スペルカードルールの普及における種族の関係の変化が、良い兆しだ。
 世界が受け入れても、そこから他者との繋がりを見つけるのは己次第。人や妖怪が気軽に同じ舞台に立てるようになったことで異端なものを差別することがなくなり、それは容易なものへと変化した。
 最も、真に残酷なのは霊夢だと僕は思う。
 誰もが自由な幻想郷の中で、彼女だけが縛られている。結界の維持に必要な機能として組み込まれている。何事にも縛られぬ能力が皮肉にも思える。
 事象を当然として受け入れ、関心を持たぬ虚ろなる神の娘。
 そう思うと、もう少し恋愛について何か言う必要があるかもしれない。
 それが、霊夢を満たすモノになるのなら――

 ――カランカラン。
 玄関のドアベルが鳴る。
 僕ははっとして、我に返り店先へ向かう。まるで、何かに急かされるように。
 着いた先、店内に満ちるのは静寂。扉を開けた気配すらない。

「あら、今回はタイムラグが少なかったわね。感心感心」

 背後からかけられた声は、足を止めなかったのが不思議なほどの苛烈さを伴って頭の奥底へ響く。
 声の雰囲気自体は穏やかなものだった。けれど、そこに込められた力は僕の体から冷や汗を流す程度の圧力があった。

「君か」
「ええ」

 妖怪の賢者にして幻想郷の管理者、八雲紫。
 ストーブの燃料補給や外の世界に関する情報で世話になっているが、あまり関わりたくない苦手な少女。

「何のご用件でしょうか? 生憎、店はもう締め切っているのですが」
「ご安心を。用があるのは香霖堂ではありませんわ」

 何に安心しろと?
 花の綻ぶ笑顔で朗らかな表情を刻む紫。僕にはそれが、鈴蘭よりも強力な毒素を含んだものにしか見えなかった。

「そう身構えないで。少し、お話をしに来ただけですよ。そう、霊夢がお風呂から上がるまでの、短い邂逅。……刹那の時間の逢瀬、まるで織姫と彦星ですわね」
(何をぬけぬけと……やはり、彼女は苦手だ)

 用件とは十中八九霊夢のことだろう。
 半ば予想出来る答えを頭の片隅に押し込みながら、僕は言った。

「釘を刺しに来たのかい? 安心するといい、霊夢は誰かに心奪われる様子はないさ」
「当然ですわね。あれはそういったものですから」

 霊夢をモノ扱いしているようで、僕は無意識に渋面を作る。紫は僕の様子に気づきながらも、話を続けた。

「けれど、私はとても神経質でして。歯車にかかった、ほんの小さな小石も目ざとく見つけてしまいますの」
「僕が霊夢にとっての小石になると? 買いかぶりも良いところだ。霊夢にとって僕は、都合よく頼れる大人さ」
「都合よく頼れる大人に唇を許すほど、女は浅くありませんわ。それに、たとえそうだとしても言い切れないのが、恋というものですわよ? 乙女の力は時に神すら狂わせますわ。知識人である貴方になら、神話における恋愛話の一つもご存知でしょう?」
「神話における痴情のもつれなんて、探せばいくらでもあるさ。恋に狂って相手を殺す、なんて珍しくもなかったからね。実際に見たことはないから想像するだけだが、それはそれは苛烈なものだったんだろう。……紫、霊夢がそうなると、本気で思っているのかい?」
「いいえ。先ほども申し上げたように、私は少し不安になってしまっただけですのよ?」

 紫の姿が消える。見失った、と思った瞬間に彼女は僕の目の前に浮かんでいた。
 頭一つ上に上がった彼女の手が僕の頬と顎に添えられる。僕をお陀仏にするのが容易い位置だ。何せ、紫は指先一つに力を入れるだけでいい。僕の全身の力を振り絞った木槌の一撃を片手で余裕で止められる紫だ、それくらいわけない。

「ですから、いっそ私のモノにしてしまえば解決するかと思いまして」

 つう……と手袋に包まれた小さな彼女の手が頬から顎へ撫で下りる。八雲紫を知らぬ者からすれば、賢者の名に相応しい貫禄と容姿を持つ彼女のたおやかな動きに眼を奪われるかもしれないが、僕には死出の前座にしか思えない。
 ゆっくりと紫の唇が迫る。その紫らしからぬ行為に、僕は違和感を持った。

「僕を? 戯れもここまで来ると苦笑しか沸かないね」
「あら。意外と面白いかもしれませんわ。私の式と違い、貴方の思考の跳躍における想像力には感心を覚えることもありますから」

 彼女が手を下すのはあまりない。言語で人を落としいれ、からかう紫の性格上手出しなどという下策はそう行使しない。
 本当に霊夢の件を不安に思っているのなら、己の境界を操る程度の能力を使えば何も問題なくなる。僕を誘う理由もない。 
 僕が感じた違和感。
 八雲紫の考えを僕が見抜いたという事実。考えの読めぬ、会話を予想できない不気味な存在ゆえ僕は彼女のことを苦手としているが、今の彼女はあまりにも分かりやすい。僕程度でさえ、彼女の意図を理解できているのだ。
 紫は霊夢が恋をすることによって、巫女としての役割を損なう可能性がある僕を排除、いや篭絡しようとしている。
 この推測に間違いはない。紫の言質から言って、それ以外の回答を出すほうが難しい。
 けれど、ここで決定的な違和感を生じる。
 それは、八雲紫らしからぬ底の浅さ。
 これから導き出される答えは、一つしかなかった。

「なるほど。これが今回のからかい、か」

 僕のつぶやきと同時に、鼻先に迫った紫の顔が止まりそれ以上の接近をしなかった。
 ややあって笑みを濃くして、紫は手を離す。どうやら正解らしい。

「恋愛の話をしたからといって、ここで絡めるとは変に気を遣うね」
「そうかしら? これはこれで良い暇つぶしでしたよ」

 紫は僕から距離を取り、どこからともなく取り出した扇子を口に当てた。

「巫女を閉じ込める堅固な囲い……自由は保障しても、やはり機能に支障を来たすなら君は容赦しないのかな?」

 ある程度、これが紫なりの戯れなのだと気づいた僕は、少しフランクな口調で問いかける。常ならば絶対にしないことだが、今の彼女ならそれを許す雰囲気があったのだ。

「まさか。戯れに口を出すほど無粋ではありません。幻想郷は全てを受け入れますわ」
「戯れ、ね」

 紫にしてみれば、火遊びでしかないということか。

「それに、明日にでもなれば霊夢はいつも通りになります。それが、あの子の性ですから」
「それについて同意しておくよ。僕のためにも、ね」

 あんなことを言われるたびにこんなことが起きるのなら、有無を言わさず止める。

「君は、危険だとわかっている戯れでも構わないのかい?」
「構いませんわ。子供は遊ぶのがお仕事ですから」

 くるりときびすを返す紫。奥で、霊夢が何か言っている。僕はそれを聞き流して、紫に視線を投げた。

「さっきのあれも、戯れなのかい?」
「いいえ、狂気の沙汰ですわ。――ごきげんよう」

 そう言って紫は消える。次の瞬間、僕の服を着た霊夢が風呂が空いたことを告げる声がした。
 僕はそれに受け応えながら、その日は雑談をして夜を過ごした。




 翌朝、雨は音を潜めたが曇天の天気はまだ雨の兆候を見せている。その証拠に小雨が未だに降り注いでおり、水滴がいくつか落ちる程度のものだが予断は許さない。
 霊夢はげんなりとした顔をしつつ、とりあえず神社に戻ることに決めたようだ。
 朝食を済ませ、店の玄関へ向かう霊夢を僕は呼び止めた。

「霊夢」

 小首を傾げながら振り向く彼女に、僕は手招いて呼びかけた。

「おいで」

 僕の意図が読めないのか、やはり首を傾げながらも霊夢はこちらへ寄ってくる。
 正面に立つ霊夢。僕は彼女の小さな肩に手を乗せ、身を屈めて唇を落とした。
 僕の口と霊夢の額が触れ合う。一瞬だけ唇に残った感触を自覚しながら、僕は口を離した。
 きょとんとした顔で僕を見上げる霊夢に、指を立てて言った。

「手の甲のキスは尊敬、額は友情、頬は厚意、唇は愛情、瞼の上は憧憬、掌は懇願、腕の首は欲望、それ以外は狂気の沙汰、という言葉を昔の人は残した」
「へぇ」

 特に気にした様子もなく、頷く霊夢。

「こうして行動に移すことで感情を伝えるのさ。キスなんか、そのうちの一つに過ぎないよ。霊夢がお茶を飲んで満足感を得るように、恋人同士の場合は、愛情の確認作業ってことなんだろう」
「お茶は飲んでも飽きないわ。なんとなくわかる、それが霖之助さんなりの答え?」
「そうさ。少なくとも、昨日霊夢がしたものより、ずっと明確な答えだと思うけど?」
「うん、意味を知ってからだと全然違うものに感じるわ」

 僕が霊夢の興味に応えられたのか。それは、わからない。
 けど、少なくとも納得はしてくれたようだ。





 霊夢が帰って、僕は小雨が止むまであることを考えていた。
 八雲紫はあの時、僕の鼻先に唇を寄せていた。彼女の言った狂気の沙汰とは、紫自身もらしからぬ行為なのだと思っていたからなのだろうか。
 僕にさえ察知できるほど格を下げてまで相手をしてくれた彼女は、僕に何を求めていたのだろう。
 博麗の巫女に影響を与える異分子の対処としてなのか。  
 紫自身が行動することで、僕に考える時間を与え僕と霊夢の関係を再認させようとしたのか。
 ――雨が収まり、陽光が雲の隙間から姿を覗かせる。
 考えても、想像は想像を生むだけで解答にはたどり着かない。僕は自己論理に従い、それ以上考えるのを止めた。
 思考の停滞が終わりを迎える。
 信頼は眼には見えない。その逆もしかりだ。信頼も悪意も、眼に見えたら嫌なものだ。
 向けられるものがなんであれ、霊夢はそれら全てを受け入れるのだろう。
 それが、虚ろなる神の娘が器を満たす、唯一の方法なのだから。
 







<了>

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プロフィール

鳩

Author:鳩
ついにブログ開設です。
オリジナル小説のほか、東方projectのSSを主に書いています。
最近はジャンル問わずの投稿小説サイトであるArcadiaや、東方SSサイトの大御所、Coolier-クーリエ-東方創想話で「鳩」名義で活動中。森近霖之助を主役に書いてます。
リンクはフリーです。
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東方・森近霖之助<いらっしゃい。折角だから、訪問記録をつけさせてもらうよ。


上記絵文字提供:うるち

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